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2019.7.5

足下を掘れ。そこに泉あり。

「足下を掘れ。そこに泉あり」

5〜6年前、ある人が口にした言葉である。代々続く温泉旅館の長男としてバトンを受け継いだその人は、「あったかもしれない人生」という幻を振り払い、宿命を受け入れたうえで前向きに生きるために、その言葉を必要としたのかもしれない、と今は思う。

2011年春、将来設計などどこ吹く風、直感に導かれるがままに田舎へと引き寄せられた僕が、4年半ほど過ごした山形を離れ、生まれ育った大阪に戻ってから約4年が経つ。山形で「町おこし」という役割を与えられた僕は、「あるかもしれない人生」を手に入れることを夢見て、根無し草のように生きていた。いろんな場所に行き、いろんな本を読み、いろんな人と会い、いろんな話を聞く――。軸が定まっていない身空には、“旅”のなかで感じられる微かな自己成長の手応えだけが、不確かな未来を照らす光だった。

大阪に戻り、ある程度落ち着いた生活を送るようになってから思うのは、「置かれた場所で咲こうとする」生き方が当時の僕には欠けていたということだ。社会や組織という鋳型にはめることで、本来の自分自身が崩れてしまうのを怖れていたとも言える。

とはいえ、それはそれで必要なプロセスだった。まるでベルトコンベアで運ばれる荷物のように、敷かれたレールの上に乗って漫然と生きていた過去の自分を脱ぎ捨てたい気持ちも後押ししただろう、20歳を過ぎた頃から僕は、「オリジナルの人生」に人一倍執着して生きてきた。自分史というジャンルに興味を抱いたのも、一人ひとりにオリジナルの人生がある、と信じていたからだ。今も、その思いに変わりはない。

ただ、当時は結果を急ぎすぎていた。早く「オリジナル」を確立したいとうずうずしていた僕は、「花を咲かせるために条件のよい土地を探す」ことにばかり気を取られていた。思えばそれが、“旅”の本質だったのかもしれない。

人の記憶にいつまでも残る言葉というのは、どうやらその人にとって大きな意味を持つらしい。「足下を掘れ。そこに泉あり」しばらくの間、心にひっそりと積もっていたその言葉は、新たな解釈を纏いながら僕の心を耕してゆく。

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