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2020.1.23

「目が見える方が幸せ」という思い込み。なぜ目が見えるようになると、深刻なうつ状態に陥るのか?

「目が見えない方が幸せ」という価値観があることを教えてくれた本がある。3歳で視力を失った男が、手術により、46年ぶりに視力を取り戻したという実話が描かれた『46年目の光』(2009)だ。

ざっくりと言えば、七転八倒しながらも初志を貫徹し、目的を達成した人のサクセスストーリーである。しかし、そういう話の本筋よりも僕は、目が見えなかった人にとって目が見えるとはどういうことか、というテーマ(主に第5章:やめておくべき理由はたくさんある)に惹かれた。

生まれたときから目が見えない人、あるいは、幼少期までしか目が見えなかった人が手術により視力を得た(取り戻した)場合、おおむね二つの共通体験をするという。目に飛び込んでくる世界が「奇妙で不可解に感じる」ことと、「見ることを選んだ代償として、深刻な心理的危機に直面する」ことだ。

たとえばある人は、材木の欠けや繊維の汚れ、ペンキのはげた部分を見過ごせなかったり、妻が思っていたほど美人ではないことにがっかりしたり……。「目が見えるようになったら、もっと完璧な世界が目に飛び込んでくるにちがいない」という憧れと幻想が打ち砕かれてしまったのだ。

結局この人は、この世界が想像していたほどすばらしいものではなかったことへの落胆と失望を癒せぬまま、手術の約2年後に亡くなったという。まだ54歳で健康面にまったく問題がなかったのに、である。

この例に漏れず、視力を得た人は、深刻なうつ状態に陥り、そこから抜け出せないケースも多いのだとか。「目が見える方が幸せにちがいない」という考えは、一方的で無邪気な思い込みでしかないことを突きつけられる。

逆に考えれば、「目が見えない」人たちは、視覚を補うための想像力が鍛えられすぎているのかもしれない、と思った。マスクをしている方がかわいく(かっこよく)見えたり、電話で聞く声しか知らない人に好意を抱いたり。見えない方がかえって恋心をかき立てられることもあると思えば、「目が見えない」人たちは幻滅しづらい人生を送っているのだろうか。

想定外だったのは、見ることに慣れていない人にとって、ものの見方を学ぶには相当な苦労を要するということだ。目に飛び込んでくるあらゆる映像を正しく認識するのに、かなりの時間と労力を費やすのである。当事者いわく、「勉強中の外国語を話すようなもの。単語を頭の中から引っ張り出し、動詞を正しく活用させて、それから単語の並べ方を決めなきゃいけない」感覚なのだという。

つまるところ、目が見えないのが当たり前の人にとっては、「見える状態」よりも「見えない状態」の方がはるかに心地よいものらしい。裏を返せば、住み慣れた「見えない」世界から飛び出して、未知なる「見える」世界で生きるには、強い覚悟と執念、そして膨大なエネルギーが求められるということか。

本書の主人公はそれらを備えた稀有な人間だからこそ、この実話が生まれたことは間違いない。たとえどんな困難に直面しても「現実を受け入れたうえで、何ができるかを考えられる」精神のあり方が、この主人公の一番すごいところだと思った。

表現がくどく、冗長に感じられるところも多いのは残念だが、考えるテーマとしては最高におもしろかった。おすすめです。