ライフストーリー

公開日 2015.5.19

Story

「踊ることによって、まちがいなく僕は幸せになったんです」

舞踏家 / 整体師 田中 誠司さん

誠司にとって、両親、とくに母親が愛してくれることは当たり前だった。彼らにはその「当たり前」が欠落している。ほんとに愛してほしい人に愛してもらえなかったことは、後の人生にこれほど大きな痛手を与えるのか。そう実感させられたことは数知れず。人間にとって一番の苦悩は愛されないことなのではないか、と感じることもあった。

彼らと比べれば、自身の痛みや苦しみなどちっぽけなものでしかない。身体的なコンプレックスさえなければ、どれほど幸せだろうかと思って生きてきた。自分自身は世界で一番かわいそうな人間、世界で一番傷ついてきた人間だと思って、意気揚々と東京に乗り込んできたのだ。それがどうして。むしろ、自分は幸福な部類の人間ですらある。強力な武器になると思っていたコンプレックスしか持たない自分に、いったい何が語れると言うのだろう。頼みの綱を失ったおれはどうしたらいいんだ……。

これまで自分の絶望しか知らなかった20歳の誠司は、生まれて初めて他人の絶望を感じるとともに、再び苦悩の日々へと突入していた。
「思春期の頃、身体的なコンプレックスを抱えながらも生きられたのは、母親に愛されているという強固な確信が、一度たりとも揺らいだことはないから、それが生命力の源になっていたからだと思うんです。人には「自分の力で生き延びた」と言ってたけど、どんな自分でも愛してくれる母親の存在が背後にあったことがすごく大きかったんだなと」

思い起こせば、小さい頃からずっと母からは「大器晩成」と言われてきた。そういう素養があると見込んで言ったわけでもなく、ただ励ますためだったろう。だが、延々言われ続けているとそう思いこめるようになるものである。口が達者な誠司が、偉そうなことを言ったときには、「深い、誠司先生」とおだてたりもした母だったが、実力ではなく存在を尊重してくれていることは感じていた。何にせよ、否定的な言葉を投げかけられたことは一度もない。否定的に向かいがちな誠司の心を、世の中でたったひとり肯定し続けてくれた母の存在は大きかった。

忘れられない思い出がある。小3の頃のことだ。町にあるおもちゃ屋や駄菓子屋などで、誠司は単独で、あるいは友達と連れ立って万引きを繰り返していたのだ。

子どもたちの万引き問題が、PTAで取り上げられ、生徒の保護者の間でも話題に上がるようになったある日、母は誠司にカマをかけて尋ねた。
「せいちゃん、万引きとかしてないよね?」
「え、ポップランドのこと?」誠司は思わず、以前、恐竜のおもちゃをパクろうとして捕まったことがあるおもちゃ屋の名を口にした。

その瞬間、母の顔色が変わった。
「怒らへんから全部言い。それだけ?」

口を滑らしてしまったことを悔やんだが、時すでに遅し。何十件あっただろう。思い出しうる限りの“前歴”を誠司は白状した。

翌日、誠司に学校を欠席させた両親は誠司を連れ、盗みをしたすべての店に赴き、盗んだものの代金を払い、「うちの息子がすみませんでした」と頭を下げた。父は市会議員である。地元の人たちはみな父や、その妻である母のことを知っているのだ。それでも両親は顔をさらし、朝から晩までかけて、1軒1軒、すべての店に謝罪に回っただけでなく、誠司を一切怒りもしなかった。

二度とするもんか。万引きをすることで、この人たちを裏切りたくない――。いっそ怒ってくれた方がいいと思うほど、両親に信じてもらっているという実感は誠司の心に重く響いていたのだった。

東京にて苦悩しながらも、誠司はそんな過去を思い起こしていた。

今にして思えば、そこにいたのは、40年近い人生で出逢ったなかでもっとも病んでいた人たちだった。映画の専門学校という特殊な環境のせいでもあったのかもしれない。

誠司も含めて、大学にも入れず、社会にも適応できないが、親の経済力をたよって進学してきた、半ばニートのような落ちこぼれが生徒の大半を占めていた。モチベーションはすこぶる低く、傷つき、破れかぶれのようになっている。本気で映画監督を志している人間などゼロに近かった。

当時、その専門学校は、試験を受けさえすれば入れるような学校だった。東京にはもう一つ、本気で映画監督を志す人たちが目指す専門学校があり、倍率もはるかに高かった。だが、誠司がそれに気づいたのは入学してからのこと。両方とも受かっていたにもかかわらず、誠司は不覚にも前者を選んでいたのだった。

さりとて、気づいたところで手遅れである。後悔は押し寄せたが、「絶対映画監督になる」という意志は変わらなかった。が、鼻息荒く、モチベーションが高いのは学校内で誠司を含めたほんの数人のみ。周りとかみ合うはずもなく、空回りするばかりだった。

それはよく、キレるという形で表れた。いや、喧嘩を売るようにして相手を追いつめたあげく、自らキレる場面に持ちこんでいた、と言った方がいいかもしれない。
たとえば、「真剣に映画の話をしようや」と持ちかけたのに、「もういいじゃん、田中くん。今日はパーティーなんだから」とはぐらかされた時には、「やってられるかー!」と癇癪を起こした。深いところでわかり合いたい、という自身のエゴを、誠司は相手の都合を考えずに押しつけていた。

とはいえ、自覚がなかったわけではない。「馬鹿げていて、ひどいことをやっている」とはわかっていた。背後にあるのは、破滅願望だった。
「でも、今考えたら、破滅ごっこなんです。ある程度のところまで来たら、みんなが必ず「わかった、誠司。辞めようよ」と言ってくれるという甘えがありましたから。その証拠に、人を殴ったり、取り返しのつかないようなことをしたりはしなかった。まぁ、たちの悪い子どものいたずらみたいなものですよね。他者への精神的な依存と甘え以外の何物でもない。なまじ、身体は大人になっていて、弁も立ったから、よけいにタチが悪いですよね」

自身にとって、本当の意味で他者とコミュニケーションをとりはじめたのが上京後だったのだろう。中高時代は自身の胸の内を人に一切見せず、要はまったく心と心で話さなかった。その反動なのか、東京では心と心でしか話せなくなったのだ。とくにアートの世界では、痛い過去を赤裸々に語ることが武器となり、それだけで優位に立てる、というような思惑もなかったわけではない。だが、それ以上に、自分がこれまで隠していた、見せたくなかったものが噴出してくる勢いはすさまじかった。自身の過去を人に話すたび、誠司は震えたり、涙を流したりせずにはいられなかった。

入学して2、3ヶ月後には、生まれて初めていじめを経験した。

専門学校には、友人も知り合いも誰ひとりいなかった。だが、中高の6年間、ヘアトニックを塗りつづけながら、気迫で生き抜いてきた身である。「せいちゃん」と親しまれ、集団の中で中心的存在になるのに、たいした時間はかからなかった。

それはあまりにも突然やってきた。ある日を境に、前日まで普通に接していた人たちが、一斉に無視してきたのだ。ありふれたいじめではある。エゴを周りに押し付けまくっていた傍若無人な自分にも非はあったろう。だとしても、よもや大人になって経験するとは思わなかった。平均年齢22,23歳、なかには30がらみの人もいる「大人の集団」にいるのだ。「俺なんかした? 言ってくれたら直すから」と願うように声をかけても、うんともすんとも言ってくれない。彼らの合意形成には、一切の手抜かりがなかったのである。

なんて理不尽な状況なんだろう。おかしいのは周りの方だ。そう思いたくとも、無視という攻撃の刃は条理という盾をたやすく突き破ってきた。いわれなき呵責に苛まれながら、誠司の心は小さくはない痛手を被っていた。

生き延びるため、すぐさま誠司はクラス内の他グループに混ざり、関係を築いていった。自身を無視した人たちの承認を得なくとも生きていられるための新しいコミュニティを作ることにエネルギーを傾けた。誠司は傷を負ったことで、強くなっていた。なお、その時の仲間とは、今でも付き合いがあるという。
「クラスも一クラスしかなくて、授業もあってないようなもの。確固としたものがなく、閉鎖された場所に、未解決の心の問題を抱えている精神的な子供がたくさんいるという、集団内での狂気が発生しやすい土壌だったのかもしれませんね。そこでたまたま目立った僕が、格好の標的にされたんでしょう。ある共通の感性を持った人たちが共鳴し合うというか、寄り集まってくるような時期が人生にはあるんでしょうね。

今思えば、若者の心の縮図をよく見れたし、上京してはじめて身を置く場所としてはよかったなと。僕と同じように、イニシエーションを済ませていなかったり、仕損なっていたりする人たちが色んな事情で来ていて、かつ、その負のエネルギーは作品制作にも向かない。その分、苦しい胸の裡をみんなで共有していることからくる仲間意識はありましたけどね」

寄る辺なき誠司の自己は、嘘を塗り固めるという形でも表出していた。

専門学校の同級生のなかでは、おそらくもっとも多額の仕送りをもらっていたであろう。にもかかわらず、誠司は「仕送りなんてもらってない」と言い張っていた。

一度、嘘をついてしまえば、もう後には退けなかった。嘘の上に新たな嘘を塗り固めながら、虚勢を張って「社会の苦しみを撮るんだ」といっぱしの芸術論を語る自称映画監督である。だが、飲み歩いては、年老いた両親からの仕送りを自分で稼いだ金と偽って友人におごり、金が足りなくなければ親から送ってもらっているのが実像なのだ。

吐きそうになるような嘘とともに催される自己嫌悪。嘘をついているという自覚も痛いほどあった。しかし、等身大の自分と向かい合うこと、等身大の自分を認めることは誠司にとって“死”を意味していた。だとすれば、嘘を塗り固める方がよほどマシだった。

親にも友人にも本音を語ったことはない。嘘を見抜いて、指摘してくるような友人とは絶交した。しかも、自分から切るのではなく、相手が切りたくなるような関係性を作り、相手に切らせていた。

このまま何にもできないまま、おれは死んでいくのか。フォアグラ並みに膨らんだ自意識を持て余して、人に迷惑をかけたり、傷つけたりしただけ。親の期待にも応えられず、社会に何の貢献もできず、誰も救えず、自分自身も幸せにできないまま終わるのか……。

23歳の春。そんな思いを抱えながら、誠司は専門学校を卒業した。同級生の中には田舎に帰ったり、テレビ局に入ったりする者もいた。誠司は大半の同級生と同じように、「アルバイトをしながら自主制作をする」という道を選んでいた。

映画の世界には、「映画監督」へと続く二つの王道がある。「ぴあフィルムフェスティバル」や「イメージフォーラムフェスティバル」など、若手映画監督の登竜門とされているインディーズ映画のコンテストでグランプリを獲得、そして、出資してもらった制作費を使って、劇場公開用の映画を作っていくという道。あるいは、現場に入り、助監督からたたき上げで登って行くという道である。

フォアグラの自尊心を抱えた身なのだ。助監督になり「バカヤロー!」と怒鳴られることはとてもじゃないが耐えられそうにない。迷うことなく、誠司は前者の道を選んだ。

遅くとも、25歳のときにはインディーズ映画のコンテストでグランプリ、そして27歳のときにはカンヌ映画祭でグランプリを獲ってやる――。27歳と設定したのは、同郷の映画監督・河瀬直美が持つ史上最年少記録(新人監督賞受賞)を意識していたからである。

中途半端な成功などいらなかった。世界一の監督になれなければ意味がなかった。目標とも夢物語ともつかぬビジョンが、誠司の頭の中では繰り広げられていた。

 

才能と欠落

誠司が「映画監督」にこだわるのには理由があった。

学生時代、校内で企画をプレゼンするコンテストがあれば、ほぼ百発百中で通過した。友人の前や飲み屋で映画のストーリーを語れば、居合わせた“観客”はみな、声をあげて笑ったり、涙を流したりする。終演すれば、拍手喝采を浴び、「その映画すごいよ、誠司! 完成したら絶対観に行くよ!」という賞賛の嵐に包まれるのだ。腕試しがごとく初対面の人を相手に語っても、結果は同じだった。

誠司にとっても、それらを語っているときが一番おもしろかった。登場人物になりきって身振り手振りを交えながら、セリフを語りながら、時に感極まって泣き笑いしつつ演じきる時間は、ワクワクして仕方なかった。

さらに、昔から映画をたくさん観てきたという自負もあれば、本質的な映画の良し悪しを見分ける感性には絶対的な自信もある。「語る力」と「観る力」が備わり、かつ他者からの評価もついてきている自身に、映画監督としての才能を疑う方が難しかった。