ライフストーリー

公開日 2015.5.19

Story

「踊ることによって、まちがいなく僕は幸せになったんです」

舞踏家 / 整体師 田中 誠司さん

母とのつながり

「母親の大きな愛情によって僕は助けられ、成り立っていました。でも、そう認識したことはなかったけれど、もしかしたら、母親の愛情は僕にとっての最大の力でありながら、最大の苦しみでもあったのかもしれない。自分という存在の基盤において母親が占める割合の大きさゆえ、それをすべて取り除いたところで生きていけるのか、という本能的な危機感があったのかもしれないなと。

思えば、思春期の頃に抱いた強迫観念に母親が登場したのも、母親への精神的な依存を断ち切りたいという本能が入り混じっていたのかもしれません。だから、あの日、僕はある意味、自分の空想の中で母親を1回“殺す”というイニシエーションをしたのかなと思うんです」

母親から離れるために、誠司は3度の儀式を必要としている。

1度目は、おっぱいの触り納めの儀式を行った小5のとき。2度目は、強迫観念を克服するための儀式を行った高3のとき。そして、3度目の儀式を行ったのは、2012年、35歳のとき。母が亡くなったときのことである。

奇しくも、その年の2月26日に誠司は故郷の奈良で公演を予定していた。題目は『マザー、サン』。前半は、精子が母親の卵子に出逢って、着床するまでの旅をテーマとした「精子の旅」。後半は、子がお腹に宿った母親が生命を誕生させるまでの軌跡をテーマとした「母の祈り」だった。

その時すでに母は闘病生活を始めていた。『マザー、サン』は、生きている間にもう一度、ソロの舞台を観たいという母に捧げる形で、半年前に企画した公演だったのだ。その時点で医師の見立ては、余命約1年。目的は叶うはずだった。

ところが、思わぬことに、公演1ヶ月前に迫った頃から、それまで小康状態を保っていた母の具合は急激に悪化し始めたのだ。あれよあれよという間に衰弱していく母は、2週間も経たないうちに、ほとんど言葉を話せなくなり、食事も摂れなくなった。死へのカウントダウンが始まっていることは素人目に見ても明らかだった。歯を食いしばりつつも、何度も意識を失った母は、「危なかったー。1回あの世に行ってもうてた」と冗談を飛ばしながらも何とか生き永らえていた。

母は在宅ホスピス、いわば自宅療養を行っていた。整体の仕事をしながら、母の看病にあたっていた誠司にとってはもはや、公演どころではなかった。最愛の母が刻々と死に近づいていっているのだ。公演の前に亡くなってしまうことも十分に考えられる。葬式の日に公演をしなければならない、という最悪の事態も起こりうる状況である。踊りのことなど考えられるわけもない。ただ母のことだけを考えたかった。ただ母のそばにいたかった。

とはいえ、公演の期日は先延ばしにできない。チケットは完売。宣伝も打っており、東京から観に来てくれる人もいる。郷里の奈良での初めてのソロリサイタルとあって、奈良新聞の取材を受けてもいるのだ。

飲み食いできず、眠りにもつけず、母に歩調を合わせるかのように弱っていった誠司は、1週間で5kg痩せた。挙げ句の果てには、母親の横に寝て同じ点滴を打ってもらうまでに衰弱した。公演を5日前に控えたその日、誠司は死を目前に控えた母から「大丈夫?」と励まされていたのである。

いよいよ時が迫ってきた。「寝たらもう起きれないから」自身の限界を悟っていたのであろう母は、24日の夜から25日の朝にかけて、一睡もせず、父とニューヨークから帰ってきた兄、ドイツから帰ってきた姉、そして誠司の一人ひとりにメッセージを伝えた。
「せいちゃんは絶対大丈夫。たくさん愛されて生きていきなさい」そしてもう一つ。謎ではあるが「舞踏は何でもあり」というのが、母がくれた最期の言葉だった。

何の因果なのだろう。危篤になり、医師から「おそらく明日じゅうには亡くなられるでしょう」と告げられたのは、公演の前日となる25日だった。ふとチラシを見れば、まるで予言していたかのように「季節よめぐれ 再び出逢うためのサヨナラの儀式」というキャッチコピーが記されている。運命的なことに、踊りの内容はまさに母と子の出逢いなのだ。

その日の朝。家族に向かって、母は「もうしんどいから逝っていいかな」と告げた。

家族は皆、首を縦に振った。昏睡状態になるモルヒネを打ってもらう時がきた。

それでも、母は最期の最期まで気丈だった。家族にやらせれば、あとで苦しむかもしれない。そう考えた母は自らクリニックに電話をし、やってきた医師には「ほんとにありがとうございました。もうちょっと早くに出会えたら、親友になれたのにね」と微笑んだのである。

その日の夜、誠司は眠れなかった。明日の朝、起きたときには、母はもう死んでいるかもしれないのだ。踊りのことなんてまるで考えられなかった。明日一日、息を引き取るまで母のそばにいたかった。

起きた時、まだ母の心臓は動いていた。帰ってきたら、母はもうあの世に行っているだろう。覚悟を胸に、誠司は「行ってくるね」と告げ、舞台へと向かった。

もう、やるしかなかった。母が亡くなるかもしれない状況を言い訳にするような真似だけは絶対したくなかった。その覚悟や意気込みゆえか、誠司は母親のために踊ることに力を注ぎきることができた。とてつもなく辛かったが、喜びのある儀式でもあった。
「その時はじめて、僕は独り立ちをしたのかもしれません。踊る中できちんと母と出逢い、きちんとさよならを言うことができた。母と自分をつないでいたへその緒が、35歳にしてようやく切れたんですよね。自分で切ったというより、切る場面まで母に用意してもらうような形ではありましたけども」

誠司が公演を終え、帰宅すると、母は昏睡状態でこそあれ、まだ息をしていた。

翌日、反応が返ってこようはずもない母に、兄が誠司の舞台の様子を撮った写真をパソコンで見せようとしていたときのことである。突然飛び起きた母が、目をかっぴらいて、兄が持つパソコンの画面を穴があくほど見つめ始めたのだ。
「誠司! お母さん起きたぞ!!」

兄の声を聞き、誠司を含めた家族全員が母のもとへと駆け寄った。
「お母さん、ほら、誠司が踊ったよ!」

時間にして約1分。バタンと倒れた母は、何事もなかったかのように、再び生死の淵へと戻っていったのである。

「意識は絶対戻らない」と言っていた医師は、「ありえない」と首をひねるばかりだった。その後、意識が戻ることはなかったが、母は公演の6日後の3月4日まで生きつづけたのである。
「振り返ると、自分の中にある生きるエネルギーは、すべて実体験をもとに湧き出てきているんですよ。舞踏の師匠との出逢いにしても、母親との別れにしても、身体的な病気にしても、血の通った奇跡というのかな。本で読んだり、映画で観たりして得たものではなくて、体験の中で出逢った奇跡なんです」

これまでよく、誠司は「誠司さんの人生には、すごく奇跡的なことが起こりますね」と言われてきた。「お前の人生を映画にしたら、一番おもしろい」と言われたこともある。
「自分の体験だけで十分、世界は奇跡や希望に満ち溢れていることを信じられる。でも、その人がその両親のもとでこの世に生まれてきたことを超える奇跡はないのかなと。そして、どこかで奇跡どうしが出逢うこと、やがて死ぬことだけで十分お腹いっぱいになるような奇跡を人は生きているんじゃないか、とどんどん思うようになってきましたね。できごとの奇抜性というより、ありふれたことの中にある奇跡というんでしょうか」

 

信頼を胸に

そういう母親のもとに生まれてくることも運命。そう捉える誠司は、甘え上手だった。「突き放してくれ」と口では言いつつも、突き放せないような態度をとるずるさも持ち合わせていた。完全な依存ではあるが、突き放さなかったのもまた、母の愛情だった。

〈愛って、あたたかくて優しいだけじゃない。時に厳しくて、冷たくて、突き放したりするもの。嫌われたくない、優しい人と思われたいあまり、人を突き放す勇気を自分が持てないだけ。持てない荷物を持とうとすることや、自分の気持ちを満足させたりするために、人を助けようとすることは、もっとも愛から遠いことである〉

20代の半ば頃から徐々に感じるようになっていたことを、舞踏などを通じて腑に落ちて理解できたのは最近のこと。理解するだけでなく、無理なく行動に移せるようになったのも、ごく最近のことである。

現在、誠司は舞踏スタジオにて、週に2度、一般参加者に向けた稽古を開いている。

稽古中の誠司は、参加者に対しておおむね丁寧な姿勢を崩さないが、「バカヤロー! 逃げてんじゃねぇよ!」と声を荒げるなど、時おり厳しい顔を見せる。
「僕は人を信頼しているんですよね。たとえば、参加者の人が手を抜いたりすれば腹が立つし、腹が立っていると言うわけです。でも、紙一重ではあるけれど、どれだけ強い口調で言ったとしても、傷つけようという意図を持たずに、心から伝えたら、大丈夫なんじゃないかなと思っています。

本気を出さなければ意味のない場面で手を抜いてしまったら、自分のためにならないですから。僕のポリシーは、スタジオに来る人ならどんな人であれ、混じりっけのない誠実さをもって接すること。

師匠から受け取ったことでもあるんですけど、舞踏という芸術は安全じゃない。魂や人間の深層という“危険物”を扱っているからこそ、真剣にやらなきゃいけないんです。それが嫌なら来なくていいし、耐えられないなら帰るという自由も与えています。参加費を月謝にせず、1回1,500円にしているのも、自分の意思で決めるものだと思っているから。でも、真剣にやるのであれば、出来不出来は一切問うつもりはないんですよね。

でも、稽古終了後、厳しく接した相手を励ますといったフォローは必ずするんです。自分の発言に対する責任をできるだけ取りたいとの思いで、毎度、エネルギーを使い果たすんですよね。(笑)」

人一倍、傷に敏感な誠司にとって「冷たくする」ことは難題だった。

もとより、誠司は誰かと喧嘩をしたとしても、その日のうちに仲直りをしなければ気が済まないタイプなのだ。和解するために、自身が折れることもまったく厭わない「超平和主義者」の誠司にとって、自分が当事者として喧嘩に関わっているかどうかも関係がなかった。

子どもの頃、家庭内で母と姉が喧嘩をしたまま、その日が終わろうとしたときには、全力でちょけたり、間に入ったりして、仲直りをさせようとした。不穏な空気が明日まで持ち越されることが、誠司には耐えられなかったのだ。

さらに、誠司のアプローチが面倒だったのであろう二人が仲直りのポーズをとっても、誠司は「心がこもっていない」としつこく食い下がった。その後、手打ちになり、お互いが心を込めて許し合ったと見てはじめて、誠司は安心して眠りにつけたのである。

誠司は、専門学生時代、人生最大の失敗を犯している。人を救ってあげようとしたのである。
「とんだお節介なんですけど、当時はそれが優しさだと思っていたんです。両親から仕送りをもらいながら生活している半人前なのにもかかわらず、自身の中にある矛盾や弱さに向き合っていかねばならない半人前なのにもかかわらず、「正義感」と「愛情」という言葉を味方につけ、「誰かを救う」「誰かを助ける」という言葉の甘さに酔いしれながら、責任もとれないような分不相応な物事に首を突っ込んだんです。

“地獄の日々”を乗り越えるなかでつけた腕力は、誰かを救えるくらい強いものだと思い込んでいたんですよね。だけど、相手からの依存は、想像をはるかに超えるものだった。相手の闇の深さを甘く見ていたことを突きつけられたわけです。だから、自ら救いの手を差し伸べておきながら、その手を掴み、引きずり込んでいく相手の力の強さにおののいて、その手を自ら振り払った、みたいな感じになったんですよね」

起こっていたのは、まぎれもない共依存だった。人を救ってあげようとすることが、いかに相手を深く傷つけるか。誠司は身に沁みて感じていた。

もっとも、整体をやりながらカウンセリングめいたことをしている今も、来院者を救いたいという思いはある。だが、昔とは違い、主語は「おれ」ではないのだ。

誠司はよく「僕が治すんじゃない。自然治癒力という、あなたの中にあなたを元気にする力がある。僕はお手伝いするだけなんです」と言う。頃合いを見て、「周りに助けてもらおうと思うのを辞めなさい」と言うこともある。
「傷んでいる木やゆがんでいる木があったとして、それらを治すために薬を注入したり、針金で矯正する、みたいな整体を僕はしたくないんです。

傷みやゆがみの原因は環境にあると僕は考えています。木が本来、元気に育ちうる環境が周りに整っていないからそうなっているだけ。雑草を抜いてあげたり、風通しをよくしてあげたり、適度な光が当たる環境を作ってあげるだけで、木は勝手に治るのかなと。だとすれば、治したのは、風や水や光といった自然の力、神とも言い換えられるものでしかないですよね。